自死について①で、一般的な生死への考え方を綴ったのだが、
私にはどうしても、別件で自死について申し述べたいことがある。
一生懸命生きるとか、辛いからって死んじゃダメだとか、そういう一般論も勿論承知しているのだが、そして基本的に異論はないのだが、
殊、感受の強い者、とてもこの世では生き難い感性を持ち合わせた者についてはどうだろう。
高校の時、『国語便覧』に有名な作家達の年表が載っていて、なんとなく見ていたらその最期は自死が多かった。
それを国語の先生に「なんでですかね~」と軽く尋ねたところ、
「こういう方達は、表現したいことがこの世だけでは収まらなくて、向こうの世界に行くのかもしれないですね」という旨の答えだった。
成程そういうことなら仕方ないな、と生意気にも思った。
そして畏れ多くも、自分もそういった類の人間ではないかと思った。
自死はいったん置いておくとして、また偉大なる作家と同列だなんて勿論思っていないけれど「表現したいことがこの世だけで収まらない」という言葉はスッと入ってきた。
その頃の中二病や虚弱体質や思春期特有の彼是を差し引いても、とてもこの世だけでは受け止めきれない感情や感受が湧き上がっていたのだと思う。
表現したいことが追いつかない、そもそも表現する方法もないくらい、この世の受け皿ではとても足りない感覚を持った人が確かに在る。
諦めるか、騙し騙し過ごすか、ライトな表現に変えるか、それが叶わないなら自死というより「向こう側へ行く」のも選択肢としてあるのではないか。
決してオススメしているわけではなく、この世で表現しきれないことを持つ人が「向こうへ行きたい」と言った時、止める権利はないのかもしれないな、と思っている。
繰り返すが自死は「ダメ、ゼッタイ」。それは基本として持ったうえで、
どうしてもこの世に収まらない人も在ると、1つの考え方として置いておく。